in the morning rain

ロンドンに留学している大学生のブログでした

座ってみると

「座ってみると何か起きるかな」と思った訳でもないが、6年以上ぶりに座禅をしてみた。

中学高校は男子校の仏教校に通っていた。お寺の子どももいたが、一応進学校とされる学校で、ほとんどの生徒にとって仏教は「なんかあるな〜」くらいのものだったと思う。でも、行事に出たり、宗教の授業があったり、教員がお坊さんだったりと、やっぱり人並み以上には仏教に触れていた。

自分自身も在学中、年に10回くらいは座禅をする機会があったように思う。仏教にも宗派が色々とあるのだが、母校のものは座禅を修行の中心にしている宗派だった。

当時は、足や腰が痛むし、たまに酔って気持ち悪くなるし、何より「何もしない」で時間が過ぎていってしまう座禅の時間がそこまで好きではなかった。宗教の先生は座禅中は「ただひたすら座る」ものだと言い、邪念が浮かんだら振り払わなくてはいけないと言っていた。音が聞こえたら「あ、音だ。」でそれ以上は追わないのだと。

でも流石に、中高生に「何もしない」時間に価値を見出せ、と言ってもそれは厳しいよなと今では思う。24歳になった今だって、生産性のない時間は出来るだけ過ごさないようにしてしまうし、休日に昼寝をし過ぎてしまうとその日は少し落ち込む。「無駄な時間」や「何も生まない時間」にはそう簡単に寛容にはなれず、やっぱり時間は自分の将来などのために「有意義」に使わなければと日々どこかで真面目に焦ってしまっている。

でもそういう意識の緊張はここ数年のどこかの時点で少しずつ解れて来たようで、最近は「無駄な時間」や「意味のないこと」が許せるようになってきた。というより、そういうものにこそ価値があるような気さえしてきた。もちろん、より良い未来のためにやらなくてはいけないことは山積みだし、時間は有限で、ストイックに物事に取り組むことは大事だとは思う。でも、無駄が何か無駄じゃないものに転じることは大いにあるし、また毎日をサバイブしていく上では「意義を求めない時間」は絶対心の健康上大事だろうとこの頃になって思う。また少し話は離れるけれど、芸術や表現の話でも、無意味さや無駄さこそが大事だな、なんて最近は思うようになってきた。

だから、もちろん座禅は修行の1つではあるから、そこに精神的な向上が求められていなかった訳ではないとは思うけれど、昔の偉い宗教家たちもそこに向上だけを求めていたわけでは決してないんだろうと思う。「無の境地」のような感覚がどういうことかは分からないけれど、少なくとも座禅をしている時間は社会から切り離され、何かを考えることをやめていい時間、だとするならばそれは日常の中ではかなり得難い類の時間だなと思う。正直、久々に座ってみて、頭が空っぽになる感覚だったり、思考を完全に止めることは人間である以上相当難しいと思ったが、少なくともそれを許される時間を過ごしている、という事実だけでも何となく心が軽やかになる感覚はあった。

少し前の自分なら「座禅によって精神を鍛えよう、何かを得よう」のような思考でしかおそらく座禅に動機を見出すことがなかったなと思う。

こう思えるようになってきたのが自分の精神的成長だとしたらいいけれど、社会生活に疲弊してきている兆しだとしたら悲しい。でも多分両方が理由なのだろう、歳を重ねるってそういうことか、なんて思ったりしている。

月に一回程度は卒業生に開かれた座禅会があるようだから、また行ってみてもいいなと思う。