in the morning rain

ロンドンに留学している大学生のブログでした

日本の大学や就活について

僕は日本の大学を2年生の途中で休学してイギリスに来ているわけなので、日本の'就活'をまだ経験していないし、単なるイメージで語ることにはなるかもしれないけど、ちょっと日本の就活について書いてみたいと思う。

まず、イギリスに気がついたこととして、こっちの学生はやっぱり(イメージどおり)勉強している、というものがある。もちろん日本の大学生もしっかり勉強している人はたくさんいることはわかっているのだが、やはり自分自身日本で大学生を1年半ほどやって大学の勉強のラクさや、本質的でないところを実感しているし、日本の大学生は勉強しない、というのは一般論として語って問題がないだろう。べつに僕自身、大学時代は勉強するためだけの時間だ、などとは思ってはいないのだが、それにしても日本の大学生の勉強しなさにはちょっとマズいんでないかな、と思ってしまうところはある。とはいってもこれは日本の学生が怠惰であるために起きているのではなく、当然問題は学生を取り巻くシステムにある。そして僕はこの最も根幹には日本の新卒一括採用があり、日本の大学がラクであることや逆に激しすぎる日本の大学受験などはここに起因しているのかな、と考えている。

 

まず、こっちに来て驚いたこととしてイギリス人やアメリカ人の学生と話していて日本の就活の常識が全然通用しない、というものがある。というのも日本のように、大学3年の終わり頃か4年になると学生たちがみんな揃ってスーツに身を包み企業の説明会や面接などに向かい始めるということが欧米では起きないようだ。職探しは大学を卒業してから始めるのが普通なようで、早いひとは仕事が見つかり次第就職するし、なかなか見つからない人はバイトやインターンをしながら職を探すそうだ。この違いは、欧米には新卒一括採用という概念がない、ということから来ている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 とここで、僕がつらつら書いていくよりも、下の記事を読んでいただくほうがわかりやすいだろうと思ったので、是非読んでいただきたい。短い記事なので。

journal.rikunabi.com

 

上の記事で書いてあることを大きくまとめると

  •  日本型雇用においては、社員が契約するのは「会社に入る」ことであって特定のポストへの雇用契約が結ばれるわけではない。つまり個人のポテンシャルをみての採用である。
  • 対して、欧米では「具体的個別的なポスト」で契約を結ぶということ。そのためそのポストにぴったりのスキルを有している人が雇用されるということ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

つまり、日本企業(もちろん一言で括るのはあまりにも強引なことであると自覚している上で、'伝統的な'という意味で)はとりあえず、ポテンシャルがあり、将来的に企業にとって戦力となりそうな学生を欲しがり、その彼らをしっかりと会社の社風や考え方のなかで育て、会社全体として強い組織を作るという経営方針をとってきているということだ。社員の給料は勤務年数とともに上がっていくため社員は転職などはあまりせず会社に仕え、会社も社員を守る。というように会社と社員の関係がかなりベッタリしたものとなっており、そのシステムのなかで生まれる強固な組織力を武器にしている。そのため、やはり'組織として'ということにフォーカスしていることから、'同期入社'や'上下関係'の仕組みが必要であり、このために「新卒枠」という概念が生まれてくる。これが僕の日本的経営に対する理解だ。そしてこの仕組みにおいては新入社員たちは会社に育てられることが前提とされているため、大学生は企業に入社する際に特別なスキルはそこまで求められていないのだ。

 

一方アメリカやヨーロッパの企業(ここもあまりに雑な括り方であるのは承知だが、この文脈においては括れると思う)は上の記事のように即戦力となるとなる人材を求めているようだ。また、欧米では特に個人のキャリアを重要視する傾向にあるため、その職場で自分のスキルアップがこれ以上望めないと感じたら転職する、というのはよくあることのようだし、このように会社と社員の関係も日本に比べたらよっぽどドライなのではないかと考える。勤務年数に応じて給与が上がるなんてことも基本的にはない、給与はポストによって決まるしポストはスキルが決める。そしてこのような経営スタイルにおいては、'新卒であること'の価値はこれっぽっちもない。スキルがある者が、そのスキルが生かされるポストに就職し、そのスキルを生かす、というとても合理的なものだ。企業は即戦力としてすぐに働ける人物を採用したいのだ。だから、アメリカやヨーロッパの学生には大学は'専門的なスキルを身につける場所だ'という認識が高いし、インターンシップ文化がさかんで、また積極的に大学院などにも進学する。と僕は理解している。スキルがないといい職につけない、というのは結構シビアだ。

 

ちなみにステレオタイプ的な考え方ではあるが、でもやはり欧米は個人主義的(individualism)、日本は集団主義的(collectivism)ということはある程度事実だと思っていて、この文化的な違いが企業の経営方法にも大きく影響しているというのはおもしろいことではある。

 さぁ、すこし堅苦しくなっているが、というわけでここまで主に日本と欧米の雇用システムの違いについて、自分がこっちの生活で感じたことや本やインターネットで得た知識を交え、自分の見解をまとめてきた。

さて、これほどまで企業の経営方針、雇用のシステムが違うのだから、日本の大学生と、アメリカやヨーロッパの大学生の大学に対する捉え方や学習への姿勢が変わってくるのは当たり前のように思えてくる。日本の学生は大学時代に即戦力となるようなスキルを身につけることを企業側にそこまで求められていないし、アメリカの学生はそのスキルがないと職につけない。

このように書くと日本のこのやり方はネガティブな点ばかりに聞こえる。しかしその一方で、例えば日本の若者の失業率が他の先進国に比べ低いことや、実際この日本的経営が世界的大企業を多く生んできたことも事実としてあるため、この新卒一括採用も悪い点ばかりではないのだろう。だからこの問題は当初僕が思ってたより根深い。ただ批判できるものでもなさそうなのだ。

しかし、それでもやはり近年の日本企業の国際競争力の低下は明らかなことだし、そろそろ危機感をもって見直していく時期であることは間違いないだろう。

 新卒一括採用が変われば、大学のあり方が変わり、大学受験が変わるだろう。大学受験が変われば高校や中学のあり方だって変わる。日本の詰め込み式の大学受験(と学歴社会)への批判は多いが、いまの就職の仕組みのなかでそれらは本質的には変わらないと思う。

もちろん日本の大学生は勉強しないからといって、ただ怠けているかといってはそうではなく、サークルやバイトなどで自分の好きなことを追求し、そこから机上の勉強からは得られない多くの学びをしていたり、大いに与えられた自由な時間を使って何かにチャレンジしていたりする場合が多い。ただその一方でそれらは大学に行かなくてもできることだというのもまた事実で、大学が「場」として機能しているだけであったり、「大学生」という身分を与えるためだけのものであるならそれはとても本質的でない。日本の大学生(自分もだし)を批判する気なんてさらさらない。だって彼らはなにも間違ったことをしていない。彼らを取り巻くシステムのなかで自然な選択をしているだけだ。しかしそのシステムは全く本質的でないし、それがあのキツい大学受験を乗り越えた彼らに与えられるものとして相応なものだろうかと疑問を抱かずにはいられない。

海外で生活すると日本への愛が高まるので、こんなことを言ってしまっている。やはり自分の国はもっと国際舞台で存在感のあるものになっていってほしいと思うものです。

しかし、その一方でこれを書きながら、じゃあ大学で学問に取り組むことと、その仕事で使えるスキルって直結するのかよ、という疑問が生まれたり、もし本当にみんなが本質的な理由(学問をする)で大学に通うような世の中になった多くの人にとってひょっとしたら大学なんて必要なくなってしまうかもしれないし、そもそも大学なんて今のネットでだいたいなんでも自習できる便利な時代に必要なのか、などといろいろなことが頭を駆け巡り、少々混乱しているので今回はここでキーボードを打つのをやめさせてもらう。

この問題については今後もっと考えていかなくてはならないと感じているし(お前は誰やねんって話だが!)、また日本と欧米という二項対立で書いているためあまりに物事を単純化しているなどとツッコミどころはたくさんあるとは自覚している。あと、自分は就職はもちろん就活さえ経験していないわけで、現実を理解していない部分は多いだろうと思う。ので、若干この記事に対するリスポンスがこわい気もする...

ですが、個人的な連絡でもなんでも、お気軽に指摘していただけるとありがたいです!

-----------------------------------------------------------------------------------------------------

最後に

とわりと一気に書きあげたものの、けっこう内容が堅いし、僕のことを知っている人はいつからそんなこというようになったんだ、と思ったりもするかもしれませんが(というか誰がこれを読んでくれているのかこっちにはわからないわけですが)、最後にも書いたようにじゃあ日本の就活をなくしてアメリカみたいにもっとシビアなものにして、学生をもっと勉強させよう、とは簡単には思えていないわけで、まとまっていない考えをただ吐き出したようなものです。それにこれを書きながらもけっこう考えが変わったりしたので。まぁそれだけ簡単じゃない問題ってことですね。

今回はけっこう真面目だったので、おそらく次回は反動によりギャグ全開でいくぐらいの気持ちでいるので!どうぞお楽しみに。

 

※ 細かい誤字や日本語の訂正をしました (5/1, 5/3, 2015)

 

Netflixの簡単レビュー。映画「フランク」感想。また日本での洋画のプロモーションについて。

うーん、もう留学も半年以上経ってしまったのか早い。

先週末は最近加入したばかりのバンドの初スタジオ練習で土日とも忙しくなるなぁとか思っていたら、スタジオ二日前にメールで解雇通告を受けました。こんなことってあるんですね(笑) 元気にやってます。

 

そんなわけで土日がぽっかり空いてしまったので、以前から気になっていたNetflixを始めてみました。映画やテレビ番組の定額制ストリーミングサービスってやつですね。日本ではまだ始まっていないようだけど、全世界(主にアメリカ)で会員が5000万人くらいいるそうで、イギリスでも名前をよく聞きます。日本ですでにサービスが開始しているHuluと同種のサービスですね。Netflixと他のサービスとの比較は、他のものを使ったことがないので自分では正直よくわかりませんが、画質やコンテンツの量でNetflixはどうやらすごいらしいです。ちなみに月額は1500円くらい。

f:id:helloLondon:20150323151143j:plain

特に知識もなく登録したので、始めNetflixってSpotifyでたいていの音楽が聴けるように、どんな映画やテレビ番組も検索ひとつで見れるんだろう、とか思ってたのだけど、そういうことではないらしい。確かに量は多いけど、Netflixが公開しているコンテンツの中からしか見れないんですね。カテゴリが分かれていて、例えばSF映画だけでだいたい120作品くらい。全体でみると1000タイトルくらいでしょうか、いやもっと少ないかも。最新のものや有名なものもあるけど、名前を聞いた事のないものも多いです。

なので、以前から観たいと思っていた映画や誰かに勧められた映画をポチッと検索して観る、というよりもなんか映画みたいなーと思った時に、Netflix上にあるものから面白そうなものを選んで観る、という使い方になりそう。映画もそうだけどドキュメンタリーなんかもけっこう面白そうなものが多い。

とまぁNetflixのレビュー的なものをさらっと書いたものの、メインで書きたかったのはそこじゃないんですね。今日そのNetflixで観た「Frank」という映画についてです。この映画はポスターをみかけたことがあるくらいで内容は特に知らなかったけれど、なにかこのポスター画像に惹かれるものがあったし、Netflix上にある映画の紹介を読むとどうやらバンド系映画らしいということが分かったので、観てみることに。

日本では2014年10月、イギリスでは5月に公開された映画で、監督は自分知らない人だったんですけど、主演のひとりは最近よく見るイギリスの若手俳優ドーナルグリーソン(昨年ヒットしたアバウト・タイムの主役)です。

f:id:helloLondon:20150323094643j:plain

映画の簡単な内容はというとミュージシャンへの憧れがあるが才能のない主人公のジョンがフランクというこのポスター中央のおかしなかぶりものをした男と出会って、一緒にバンドをやっていくというもの。フランクは風呂に入る時でさえも絶対にこのかぶりものを外さず、謎が多い。そして彼の音楽の才能は天才的。

結論から書くと、僕的にこの映画はものすごく良かった。映画の前半でもうこの映画のファンになり、後半多少ダレる時間帯もあったものの、最後まで観てあぁやっぱりよかった、よくできた映画だなと思った。

で、みんなどう思ってるかなと、映画鑑賞後のいつもの習慣でレビューサイトやブログなどを軽く覗くのだが、どうもいまいちな評価をしている人が多い。

僕がこの映画に好印象をもった理由としてはまず、音楽がすごく良い。これは音楽映画においてとても重要な要素。けっこう実験的な音楽ではあるけども、鋭くて格好よかった。そしてもう一つは、ミュージシャンというものの描き方がとてもリアルだと感じた、というところにある。音楽で食べていくということ / いい音楽と売れる音楽 / 芸術家、ミュージシャンでいることの自意識 / 天才と凡才/ などなど、、、様々なテーマにおいて、そのリアルな描写に、自分が音楽をやっていることもありギクっとするシーンや共感するシーンが数多くあった。

しかし!日本のレビューサイトを見てみると多くの人の評価が低い!そしてそれらを読んでみるとその内容で多かったのが、「音楽映画なのに音楽が良くない、異様」や、「登場人物に感情移入できない」や「映画がなにが言いたいのかわからない」などなど、僕が映画の感想として良いと感じた点を逆にネガティブにとらえた人が多かったような印象を受けた。(イギリスのレビューサイトでもそこまで評価は高いわけではなかったけど、日本の方が厳しい評価が多かったように思う)

おいおいお前、「僕はセンスがいいからこの映画の良さがわかります」的なこと言ってんだろどうせ、と思っていま読んでる方もいるかもしれないが、そういうことではない。もうちょっと読み進めていただきたい。

 

僕はこのような現象が起きている原因が、「フランク」が日本で上映された際の宣伝のされ方にあるのではないかなと思っている。この映画を好みそうな層の人たちに映画が届いていないのではないだろうか。適切でない層に映画がアピールされ、彼らは劇場に足を運んだものの、鑑賞前の映画に対するイメージと実際の内容がだいぶ異なっていたため、困惑する。それが低評価が多い理由なのではないかと考える。

 

        f:id:helloLondon:20150323103648j:plain

上のものが日本でFrankが公開された際のポスター。うーん英国圏版のポスターとだいぶ違っている。この映画はwikipediaでもジャンルはコメディととされており、確かに笑えるシーンも多い。ただ実際はその笑いもどこか風変わりなもので、そもそも扱ってるテーマが精神病であったりとけっこうシリアスなもので、全体的に作中の雰囲気は暗めである。英国版ポスターからは暗いとまではいかなくても、'かぶりもの'の不気味さや少し不自然な背景の色から、映画のシュールな感じがまぁ感じられる。そしてポスター自体けっこうおしゃれ、というかスタイリッシュな印象も覚える。

一方の日本版、ポップですね〜。映画タイトルのFRANKのロゴ、可愛らしいギターと五線譜、おまけに左下のバンドメンバーはどこかマヌケっぽい。実際彼らはポップさの欠片もないかなり尖ったミュージシャンの設定。そしてフランクの'かぶりもの'もどこか不気味さが足りない。ポスターがかわいらしすぎて、欧米版のポスターや映画自身が持っているちょっと不気味オシャレな感じが出てないんですね。

となると、そもそもいちおうジャンルはコメディであるし、この映画を観たら気に入るであろう層、すなわちインディー音楽好きやバンドマンたち、にはこの宣伝の仕方ではなかなか届かなそうではないだろうか。ファミリー向けコメディー映画か何かかな、といってちょっとサブカルな彼らの興味はここには向きそうにない。

 

ただ、正直なことをいうと、日本どうこう以前に英語圏でもこの映画のプロモーションはこれでいいのか?と僕は思っている。トレイラーを見ても面白おかしなコメディ映画にしか見えないので、映画を実際観た後にこれをみると、あまりの印象の違いに驚く。


Frank official film trailer - in cinemas from 9 May ...

 

映画を売るためには、本来の映画の印象を大きく変えるまでしなくてはいけないし、それが事実効果的であるということなのだろう。まぁ実際シリアスで、観る人を選ぶ映画であるのだから、それをそのまま見せるより、カップル、ファミリーで楽しめる、笑える映画だよ、と売った方が映画の集客は増えるに違いない。しかしそれが原因で映画に対する適切な評価が下されないとなるとそれもそれでどうなんだろう、という気持ちだ。

 

 

さぁ、ここまで僕が今日観た映画「フランク」について書いてはみたが、映画のプロモーションについてもう少し書きたいことがある。それは洋画の日本における独自の売りかたについてだ。

イギリスに来るまで全く気がつかなかったことだが、これがけっこう面白い。最近の映画でこれが顕著だったのが「ベイマックス」だ。この映画は日本の方がイギリスよりも公開が早く、僕はSNSで日本の友人たちが「ベイマックス観た」とかよく投稿しているのをみて、あぁいま日本で「ベイマックス」って映画が流行ってるらしいぞ、そしてそのポスター画像などを見てどうやらロボットと少年の友情物語らしいぞ、泣けそうだな、楽しみだ。とか思っていた。けれど、僕はけっこう映画館に足を運ぶ方なのに、そのようなポスターをみた記憶はなかった。

その理由はこうだ 

         f:id:helloLondon:20150323114735j:plain           f:id:helloLondon:20150323114611j:plain           

       

ひょっとしたら上のポスターをみて驚いた方もいるかもしれない。欧米版と日本版では題名、そしてポスターが与える印象が全く違うのだ。こちらでは、日本での宣伝に使われている、「優しさで世界を救えるか」や「あなたの心とカラダを守ります」といったような、ベイマックスと少年の友情話という'泣ける映画'ではなく、バリバリのヒーローアクションものとして宣伝されていたのだ。そして映画を実際に観てみると、友情要素はあるものの、やはりこれは6人のヒーロー達によるアクション映画(まさにBig Hero 6)であった。欧米版ポスターが描くイメージが実際の映画の内容そのものという感じで、日本版ポスターからイメージさせられるような内容ではなかったのである。実際日本で劇場に足を運んでみて、想像していたのと違う!と肩透かしをくらった人は多かったのではないだろうか。

 

f:id:helloLondon:20150323121234j:plain

なかなかの焦点をずらした宣伝をしているので広告詐欺っちゃ広告詐欺とは言えるものの、この日本のプロモーションは実に上手いといえる。ドラえもんで育ってきた日本人には、このロボットと少年の友情、というテーマは響くに違いない。(実際昨年の興行収入みてみるとドラえもんがアナ雪に続いて2位だし)。それにこの優しい印象のポスターは映画が子供向けアクションもの以上の要素をもつことを表しており(というかこのポスターにアクション要素ないけど)、ファミリー層以外にも映画が受け入れられるように作られている。カップルや友人同士で観に行っても全く不自然でないように思える。映画の邦題に関しても6人のヒーローではなくベイマックスに焦点を当てたのが上手いと感じる(これもドラえもん的な?)。

ちなみにロンドンの映画館で僕が観たときはほとんどが小学生くらいの子供たちとその親、というファミリー客であったように思える(なんせこちらでは子供向けヒーロー映画として売られているからね)。

ちなみに、個人的に「ベイマックス」けっこう面白かったです。映像もさすがディズニーで魅力的だったし、ロボットとかメカとかってやっぱりいまだに楽しめてしまう。おまけに最後はベタだけどちょっと泣ける。(さんざんアクションものだと書いておきながらも、いちおうやはり最後は感動させにかかってくるし、僕はしっかりそれに乗ってしまった。)

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まとめ

 

「アナと雪の女王」だって原題はFrozenだし、アカデミー賞をとったBoyhoodの邦題は「6歳のボクが大人になるまで」。こういうユニークで映画に良い影響をもたらしているといえる邦題やプロモーションの例を挙げるとキリがない。映画だけじゃなくてCDや書籍だってそうだろう。

一つ一つの邦題のつけ方、ポスターのデザインなどに、配給会社の日本マーケット向けに最適化された戦略がある、ということはこっちに来るまで気がつかなかったことであるし、興味深い発見だった。また、宣伝トレイラーや広告はそのような戦略に則って作られているものだ、ということを意識するとまた少し違った視点でそれらに向き合えたりもするかもしれない。映画のイメージは操作可能である、ということだ。これはニュース報道とメディアの関係ともよく似ている。使われている素材に嘘はないのだけど見せ方はいくらでも編集できてしまうのだ。

まぁだから映画の広告には常に批判的になろう、とかそういうことを言いたいわけでもないのだけれども。むしろ、逆にポスターやジャケットがイケてなくても、中身はイケてるかもしれないよ、ということが書きたかったことなのかもしれない。

そして音楽やってる人はぜひ「フランク」観てみてください。

 

Netflixから始まり、宣伝があまり上手くない例として「フランク」そして日本向けの売り方が上手だった例として「ベイマックス」を挙げさせてもらった。

気づいたらまたけっこう長くなってしまっていたなー。短い文章をさらっと書いて毎週なにかしら発信、みたいな形にしてみたいのだけどなかなか難しい。

長いのに最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

 

 

 

反日映画 !?アンジー監督作「アンブロークン」を観た。

日本での公開未定映画「アンブロークン」についての日本語による正しい情報がネット上にあまりに少なく、記事を書く必要性を感じたのですっかり放置していたブログに書くことに。

f:id:helloLondon:20150108215627j:plain

 http://www.unbrokenmovie.co.uk/ (公式サイト)

 日本軍に捕虜になった元オリンピック選手アメリカ人の実話をもとにアンジェリーナジョリーが監督を務め、制作された今作。捕虜収容所での日本軍による主人公への残虐な暴力が描かれる。それらを不屈(unbroken)の精神で主人公が耐え、生き延びるという内容だ。テーマがテーマなので日本では公開未定、また日本での上映反対の声もあるらしい、ということだったので日本人の自分にとっては観ていて心痛むものになるのであろう、と思いながら劇場に。

 


Unbroken - Official Trailer (HD) - YouTube

 

上映前、なぜこの種の映画にMIYAVIは出演オファーを受けたのだろうか、と考えていた。それも彼の演じる役は極悪非道な収容所長官だそうだ。日本人にとってはやはり目をつむってしまいたくなるような歴史だし、この映画に出演することで、日本のイメージを悪くすることに力を貸すことも考えられる。

彼がそのオファーを受けた理由としてインタビューで述べているのが、アンジー監督に説得された際の言葉で、「この映画を日本とアメリカ、そして同じような戦争を経験した国々との架け橋になるような意味のあるものにしたい、テーマは戦争ではなく、"許し"だ」というもの。鑑賞後その意味がよくわかった。

そのMIYAVIのインタビュー↓

http://www.nytimes.com/2014/12/21/movies/miyavi-on-his-unbroken-experience.html

 

映画が日本軍の残虐さ、というよりも戦争自体の恐ろしさにフォーカスしているのは明らかだった。日本のネットで騒がれているような、日本軍が捕虜の人肉を食すシーンなど全くないし、暴力も戦争映画で描かれるものとしては標準的なものだったように思う。

ちなみに、収容所の看守を演じるMIYAVIの演技は素晴らしく、単なる冷酷なサディストではなく、戦争により苦しむ人間としての彼もよく表現していた。MIYAVIの中性的な顔は美しく、役者としての存在感もあったので、これからハリウッドでの俳優業も上手くいくかもしれないと思わされた。

正直、映画の完成度としては、無駄なシーンが多かったり、登場人物に感情移入しづらかったりで、少し浅い作品だなという印象を抱いてしまっていた。映画の終盤までは、日本のことをこのように描いているからには、もう少し良いものを作ってくれよ、などと思っていたのだが、最後の最後はとても良かった。

[以下ネタバレ含む]

最後は主人公のルイ・ザンペリーニが長野オリンピックの聖火ランナーとして、沿道の応援に手を振りながら笑顔で走る当時の実際の映像で終わる。このシーンのザンペリー二氏の日本人、特に子供たちに向けられた優しい笑顔がとても印象的だった。ある意味衝撃的だった。この彼の笑顔で僕の映画に対する感想が変わったようなものだ。ここで急にリアリティを突きつけられた。この映画は実話を扱っているから意味があるのだと実感した。ここで、アンジー監督の言う、「forgiveness-許し」というテーマの意味を理解することができた。

ただ、戦後アメリカに帰還してから、長野オリンピックの舞台に至るまでのザンペリーニ氏の心境の変化などを描いたら、もっとオリジナリティある作品になったかなとは、個人的に思ったりもする。

[ネタバレ終了]

 

これは日本で上映するべきだ、日本人はこれを見るべきだ、などとは特に思ったわけではない。この映画を観ることで日本人だからという理由で何かを考えさせられたり新しいことに気づいたりする、ということはあまりないように思う。戦争の悲惨さや不条理さという普遍的なテーマを扱っていて、特に日本軍や日本人の特殊性が描かれているものではないからだ。ただやはり、公開しないという選択肢はおかしい。普通にひとつのハリウッド映画として上映されるべきだ。というよりいままでずっとそうだったはずだ。

家に帰って日本での「アンブロークン」の扱われ方をネットで調べてみると、多くのサイトで「反日映画」と紹介されており、またアンジェリーナジョリーやMIYAVIへの酷い非難も多くみられる。右翼層が一定数いるのは理解しているし、公開反対の署名が起こることなども驚きはないのだが、やはりこういう内容の発言が平然と行われる最近の日本全体としての右傾化には恐怖を覚えてしまう。映画を実際に観ればこの作品が「反日」のメッセージを含んでいないことはよくわかる。またネット上に、映画に関する間違った情報、というより映画への反感を煽るように編集された情報が溢れかえっていることにはとても危険を感じる(日本兵が捕虜の人肉を食すシーンがある、というのは全くの嘘)。

2014年末は金正恩氏の暗殺を扱ったハリウッド映画「ザ・インタビュー」の公開をめぐってのニュースを眺めながら映画のもつ世の中への影響力の大きさに呑気に関心などしていたのだが、この話題もいまや他人事とは感じられなくなってしまった。ドイツナチス関連の映画は山ほどあるし、ベトナム戦争を扱ったハリウッド映画なんて本当に多い。これらが製作されるたびにドイツやアメリカで、いまの日本のように映画に対する強い排除運動が行われていたのだろうか。いや、数年前の日本でさえこのような状況にはならなかったように思う。海外のメディアでもこの日本の「アンブロークン」のボイコットについての記事、そして批判が多く見られるが、まさにこのことが表現の自由が保障される先進国としての日本の世界における信頼や地位を脅かすものになってしまっているとは思わずにはいられない。

Savages & Bo Ningen @ Oval Space, 19 Nov

人生初のライブレポートである。いままでライブの感想はだいたい「最高だった」と「良かった」で済ましてきた僕が、感じたことをうまく言葉にできるだろうか。

はじめにBo NingenとSavagesについて軽く触れておこう。Bo Ningenは2007年にロンドン留学中の日本人により結成されたバンドだ。イギリスでデビューし、のちに日本でも単独公演やフジロック出演を果たすことになる。おそらく、イギリスのインディーシーンで最も名の知られた日本人バンドだ。つい先月にはKasabianの前座として全米での公演も行った。一方Savagesは女性4人からなるバンドで、結成はロンドン(ボーカルのJehnnyはフランス出身)。昨年のデビューアルバムが各方面から高評価を受け、いまイギリスで期待の若手といったところだろうか。ジャンルでいうとBo Ningenはサイケデリック、Savagesはポストパンクなどとよく言われており、両者ともにライブパフォーマンスに定評があるバンドだ。Bo Ningenの楽曲NichijyouにJehnnyが参加するなど、Savages がデビューした頃から、両バンド間には交流があった。そしてその中で、'Simultanious Sonic Poem'というダダイズム思想に基づいたアイデアから計画が進められ、ついに2013年5月、ロンドンRed Gallaryにて、両バンドが同じ場所で同じ時間に演奏する、という画期的なパフォーマンスが行われた。そこで演奏された37分間の曲が、録音されマスタリングされたものが11月17日にThe Words To The Blindsとしてアルバムリリースされ、今回その行ってきたのはそのリリースライブということになる。

 

 


Bo Ningen -Nichijyou featuring Jehnny Beth ...

 

 

 

また、↓の記事は両バンドが共に出演したフジロック2013での8人でのインタビュー。彼らの関係性が興味深く語られているので是非一読していただきたい。

【独占対談】フジロックに出演したサヴェージズ×BO NINGENの盟友対談が実現!! | Qetic - 時代に口髭を生やすウェブマガジン “けてぃっく”

 

 

開場時間と思われる20時半にOval Space(ロンドン中心部東)に到着するとすでに列ができている。入り口付近には音量注意と耳栓推奨のポスターが貼ってあり、またタイムスケジュールをみると前座のバンドはなく、その代わりに短編映画が2本上映されるとのことだ。会場に入ると、すでにかなり人が入っていて会場前方は埋まってしまっている。どうやら一時間前に開場していたようだ。もちろんチケットはソールドアウトしている、おそらくキャパは1000人ほどだ。会場前方のスクリーンには現代アートのギャラリーで流れていそうな白黒映画が映しだされており、皆が各々ビールや何かを飲みながらそれを眺めているといった感じだ。会場に着いたあたりから薄々感じてはいたことではあったが、周りを見渡すと今日はどうもお洒落な感じの人が多い。学生らしき人があまりいなく、20代後半のインテリ芸術家風(?)の人が多い。僕が普段よく足を運ぶ、いわゆるUKインディーのようなバンドのライブとは少し客層が異なっていて、会場にどこか知的な空気が漂っているような気がした。これから行われるのはただのロックコンサートでないよ、芸術だよ、とでもいいたげな空気だ。ちなみに日本人はけっこう多いだろうとの予想が裏切られ、ほとんど見当たらなかった。また男女比は男性が少し多いくらいで女性も多くみられた。

先述したように、アルバムWords To The Blindsは、37分の大作一曲が録音が収められているものだ。今回のライブはそれの再演になるわけで、当然それはヒット曲もなければ曲間のMCもない。普通のロックコンサートとはだいぶ違う。

映画が終わると、裏にスタンバイされたバンドセットの影が少し映るスクリーンを眺めながらショーが始まるのを待った。緊迫感のあるSEが観客のこちらまで緊張させる。20分ほど待った頃だろうか、全身を黒で包んだ4人と4人が歓声と拍手のなか登場した。バンド同士が向かい合っているような形でコ字型のステージの立ち位置につく。まさに音のぶつけ合い、戦いが始まるといった感じだ。まだ若干オーディエンスがざわつくなか、ボーカルの二人が詩の朗読のように言葉を発し始める。Jehnnyはフランス語でTaigenは日本語で、二人は交互に、またかぶさるように囁く。自分が日本語を理解できることに少し優越感を覚えながら、周りの英国人たちを見渡し、彼らにはこれがどのように聴こえているのだろうかと不思議な感覚になる。初めは少々騒がしかった後方の観客たちが彼らの世界に飲み込まれていくのがわかる。二人の声の隙間に少しずつ音が挟まれていき、徐々に楽器が足されていく。

 

f:id:helloLondon:20141121072219j:plain

 

Words To The Blinds-盲人のための言葉-という曲名であるが、言葉があるのはこの冒頭と終盤だけで、中盤は楽器による演奏が主になっている。もちろん声も入ってくるがこれは楽器としての役割で、特に歌詞のようなものはなかったように思う。8人がそれぞれ楽器を鳴らし始めると、この絵面だけでもなかなかの興奮ものだ。Bo Ningenはいつものようにあの長い髪をこれでもか、というくらい振り回しているし、SavagesのJehnnyは常に殺気立っていて、ステージから感じられる熱気と緊迫感がすごい。演奏はというと、空間系エフェクターをふんだんに使用したサイケデリックでヘビーな感じだ。これはこのアルバムを聴いていただければ感じが伝わるはずだ。

生ライブで体験する音楽と家で聴く音楽が別物であることは当然のことであるが、特にこの日はそれをいつも以上にそれを体感させられた。先述したようにこのライブは耳栓の必要性も考えられるほどの爆音であった。'ロンドンで最も音がデカいと言われるバンドの二つ' (先ほどのインタビューの記事より)が同時に音を出しているのだから当然あろう。自分の立ち位置の関係でステージがよく見えなかったこともあるが、ギター3本、ベース2本、2台のドラムが同時に音を出しているのだから、各々がなにをやっているのかはあまりわからず、そしてそれは問題でなく、むしろ全ての音が一つの塊となってぶつかってきているような印象を覚えた。気持ちよすぎる。僕はマイブラの名盤'Loveless'の一曲目Only Shallowのイントロを聴くといつも、'怪獣みたいな音だな'と思うのだが、そんな感じの音だ。それがずっと続く感じだ。伝わるだろうか。あと、ツインドラムがこんなに気持ちのいいものだとは思わなかった。二人のリズムが完璧にマッチしておらず人間的なところもまたいいのだ。

演奏は基本的に混沌としているのだが、構成はアルバムどおりで、キメがしっかりあり、緩急がありで、約40分で一曲という大作であるが最初から最後まで全く飽きる瞬間のないショーであった。最後はThank youという言葉とお辞儀(Bo Ningenは合掌も)と共に彼らはステージを後にした。

 

f:id:helloLondon:20141121090111j:plain

終演後のコの字型のステージ。最前列にいた観客はこのように前方にドラムセット、左にはSavages右にはBo Ningenという状態、羨ましい。

 

日本人である自分から見てもミステリアス過ぎる長髪の4人の日本人。女性のもつ可愛らしさというものを拒絶しているかのように、髪を短くし、黒服に全身を包む4人の女性たち。ビートルズの時代から続いてきたいわゆる英国ロックバンドの型からは外れた、この2つのロンドンの異端バンドがみせてくれた、肉体的、精神的な'熱量'はあの会場にいた全員をとてつもなく興奮させた。ライブの後に、これ本当に最高だな、という空気がオーディエンス間で共有されることが稀にあるが、今回はまさにそれだった。隣の人と無言で、すでに興奮をわかちあっているような感覚だ。

彼らは、最近のUKギターロックバンドの多くが忘れてしまっているように思われる、ロック音楽のもつ'熱さ'をライブを通して我々に体感させてくれるバンドだ。彼らがお互いバンド同士でシンパシーを感じ、共に表現活動をしているのはとても自然なことである、と思わずにはいられなかった。SavagesとBo Ningen、この2つの異端がUKロックシーン全体に今後どのような影響を与えていくことになるか注目である。

 

f:id:helloLondon:20141121092249j:plain

 

ライブが終わったあともなかなか人が帰らず、たくさんの人がお酒を飲みながら友人との会話を楽しんだりとリラックスしている。Oval Spaceは広くてバーも充実していてとてもいい場所だ。自分もひとり客だったわりには、上のようにステージ周りの写真を撮ったりとけっこうダラダラと時間を使った。この素晴らしい体験を提供してくれた場から離れてしまうのが寂しかったのだろうと思う。さて、そろそろ帰ろうかと会場外に出るための扉を開けると、なんと長髪で黒づくめの怪しい日本人がタバコを吸っているではないか。Bo NingenギターのYukiさんである。自己紹介をし、ライブが最高だったと伝えると、いやー本当最高だったね、最高に気持ちよかった、とYukiさん。だいたいこういうときは、ありがとうと返されるものなので、予想外の答えに少し驚く。本当に気持ちよさそうな、ライブの後の顔、という顔をしていた。Yukiさんはロックスターらしく、クールで振る舞いや話し方までかっこよかった。ライブの後ダラダラしているといいことがあるものだ。このあとさらにKohheiさんとMonnaさんも発見したので、お二人とも少しお話しさせてもらった。お二人ともとても優しくて謙虚な方だった。ステージ上とのギャップがすごい。今思えば彼らに尋ねておきたかった質問もいくつかあるのだが、とにかく、これからも日本人のバンドが世界でどんどんかっこいいことをしていくのを楽しみにしています、という気持ちは彼らに伝えられたと思うのでよかった。ロンドンに来てから何度も感じていることだが、こっちではアーティストとファンの距離が近い。次は誰に会えるのだろうか。

素晴らしい夜だった。

 

アウトプットはじめ

いままでブログを書くということに興味を持ったことが全くなかったわけではないが、少なくとも今日朝起きた時点で今晩自分がこんな文章を書いていることになるなんてこれっぽっちも想像していなかった。授業が終わり、お昼をサブウェイでとり、午後の予定も特にないので、本を読もうと居心地の良さそうなカフェに入る。席に着くとまずスマホを開きSNSを確認。いつものことだ。しばらくスマホをいじっていると、友人のブログがたまたま目に入ってきた。彼のブログは、映画や音楽、ファッションなど、若者カルチャー全般について紹介や、彼の日記が主な内容だ。どうやら彼のある記事がネット上で少し取り上げられているらしい。その記事に目を通し、それから他の記事も読んでみる。なるほど、なかなかおもしろい。次々と他の記事を開いてしまう。彼の文章から伝わってくる、知識量、行動力、そしてそれらを支えているであろう読書量に圧倒された。このブログの存在自体は知っていたが半年ほどチェックしていなかったし、どうやら彼もつい最近になって本格的に書き始めたようだ。彼とは実はそこまで親しいわけでなく、連絡も半年以上とっていなかったのだが、だからこそか彼の進化ぶりに軽い衝撃を受けた。そんなこんなで彼の文章を読み進めるうちにこんな内容の文章に出会った。彼が文章を書いているモチベーションの一つはアウトプットだと。自分が日々出会った面白かったものを「なんか」良かったや「なんか」面白かったで終わらせないようにするためだと。インプットするだけではダメで、アウトプットすることでそれらを自分の血肉とするそうだ。

この文章がスマホを閉じたあともしばらく頭に残っていて、それがいまに至るわけだ。普段から本や音楽や映画、また日々の生活のなかで感じることの自分のなかでの消化が不十分であるなとは実感していたことだ。しかしその方法もわからなかったし、まぁこれでいいだろうと思っていた。それが、彼の文章に出会ったときに、自分のことを的確に言い当てられ、僕の思考のごちゃついていた部分がすっと整理されたような気がしたのだ。

このブログになにが書かれていくかも、もしかするとこれが最初で最後の投稿になるかもわからないが、とにかく思いつきと興奮のまま筆をとってしまった。

いまはひとりでも多くの人に読んでほしい、というような気持ちよりも照れくささが勝っているものの、誰かの1日が少し良くなったり、誰かの思想になんらかの刺激を与えられたりできたならそれはとても嬉しいことだろうし、文章を書く意義であろう。

先述したようにはじめは自分のアウトプットの場となっていきそうではあるが、見守っていただければ幸いである。